( 「O plus E」 2011年10月号 “私の発言” 掲載記事:アドコム・メディア株式会社 発行・編集 )
■労組出身の最年少役員が社長に就任
聞き手:本日はよろしくお願いします。
大変遅くなって恐縮ですが,第1回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞,中小企業庁長官賞の受賞,誠におめでとうございます。まずは,ここまでに至る道筋と言いますか,どうやってこうした会社を作って来られたのか,お教えいただけますでしょうか?
近藤:ありがとうございます。
日本レーザーはもともと,電子顕微鏡のトップメーカーである日本電子の子会社でした。わたしの前に歴代の社長が4人いて,全員日本電子の出身者です。バブル崩壊後に何年間も続けて業績が悪化し,1993年にはとうとう債務超過に陥ってしまいました。主力銀行からも「もう融資できない」と宣言されました。当時,銀行保証は親会社が請け負っていたのですが,最も信用があると考えられる一部上場企業の保証があっても銀行が融資しないというのは,かなり悪い状況といえます。主力銀行は「存続させる価値がない」と判断しましたが,「親会社が融資するなら,それはご自由に」ということでした。
そこで,前任の社長と会長が,「40人の社員とその家族がいるので,破たん処理は困る。ぜひ継続してくれ」と親会社に懇願し,「自分たちは債務超過になった経営責任があるから辞めるので,若い経営者を送ってほしい」と要請しました。さらに,銀行がお金を貸してくれないので,「親会社から持参金を持って来てくれ」ということも加えました。それが,1993年の暮れごろの話ではないかと思います。年が明けた1994年初めに,わたしに「日本レーザーに行ってくれ」という話が来まして,同社の社長になることになりました。
就任の一つの理由は,わたしに9年ほど滞在したアメリカで英語を使って海外企業とビジネスをやっていた経験があることです。日本レーザーという会社のビジネスモデルは,海外から装置を輸入して国内に売ることですから,英語ができて,海外のサプライヤーと強い関係が持てるという意味で合っていたのでしょう。もう一つの理由は,わたしが日本電子で労働組合の委員長をやっていたことだと思います。経営破たんするような状況ですと,人心が荒廃していますし,会社には労働組合がなかったので,社員みんなが勝手なことを言って大変なことになっていたからです。わたしは20代から30代にかけて労働組合の委員長をやっていましたので,「人事管理や労務管理のプロだから乗り込んできちんと再建しろ」ということになったのです。
また,最も大きな理由は,その時...(以下略)
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